聖書について
|
スポンサードリンク |
ホーム>聖書について |
・イエスの言葉に あなたがたも聞いているとおり、「隣人を愛し、敵を憎め」と命じられている。 しかし、わたしは言っておく、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」 (マタイ5:43-44) ・この「隣人を愛しなさい」という言葉は旧約に出てくる。(レビ記) ・「敵を憎め」という言葉は旧約にはないが「死海写本」の(共同体の規約) という文書に、「光の子を愛し、闇の子を憎め」という言葉がでてくる。 「光の子=隣人」とは、共同体内の仲間のことであり、 「闇の子=敵」とは共同体外の人のことである。 ・「隣人を愛しなさい」ということは旧約、即ちユダヤの律法である。 「隣人を愛しなさい」という言葉は同胞以外の者を排除すること、即ち 「敵を憎め」にほとんど必然的につながるであろう。 ・「敵を愛す」ということは容易に実行できるものではない。 ・またイエス言葉に 「姦淫するな」と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、 心の中ですでに姦淫したのである。もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、 それを抜き出して捨てなさい。もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、 それを切って捨てなさい。 (マタイ5:27-30) ・このようなことが、そう易々と実行できるわけがない。 ・では、イエスはユダヤの律法を強化して、ほとんど実行不可能なことを命じたのか。 ・「トルストイ」は イエスの言葉をそのまま実行していくという立場をとる。 キリスト教徒はものすごく禁欲的で、酒もタバコもやらないと一般的に 考えられているのは、この立場からキリスト教をみているからである。 この立場をつきつめていくと修道院にいきつく。 ・一方「ドストエフスキー」は 「人間とは、どんなに努力しても掟に従うことのできない弱くて罪深い 存在なんだ。」そういう意味で、イエスの言葉を逆説としてとらえる。 ・イエスの言葉を「ドストエフスキー」のほうがきちんと受けとめている、と思う。 義人はいない、みな過ちを犯すものである。 しかし、そのような人間も神に愛されいる。 そのままでよいのだ。 「罪の赦し」「神の愛」をイエスはいっているのである。 |